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「山々の王」と尊称された御嶽山 〜山伏達が全国に広めた薬文化─2〜
御嶽山に新時代を開いた覚明と普寛は、共に地元の人間ではなかった。覚明は尾張春日井郡の人、普寛は武州秩父の生れで、江戸に出て本山派修験の修験長になった人物だった。そのため尾張や江戸を中心に関東一帯に広く御嶽信仰が広まり、御嶽山は地元の古い信仰から全国的な霊山へと発展することになったのである。普寛が覚明のミイラ化した遺体に対面したという伝説の地は、いまも御嶽山の山頂付近のニノ池の畔にあり、石碑や石像が立てられている。冬は雪深く強風が吹き荒れる山傾付近で、約八年間も遺体が保存されていたというのは疑問だが、ミイラ伝説はあくまで信者たちが中興開山の二人の行者にいだく劇的なイメージから生れたものであり、こうした覚明の伝説のように、御嶽山の山頂付近一帯には大自然の雄大な宗教空間がつくられている。 御嶽山に来ると、道筋のみやげ物屋や茶屋、旅館など、いたるところで「百草、百草丸、奇応丸」などの看板をかけて薬を売っているのが目につく。百草はキハダのエキスを主成分として乾焼させて固めた薬だ。御嶽山で百草の名がつけられたのは明治七年の売薬取締法ができてからで、それ以前は陀羅尼助とよばれていた。陀羅尼助は修験道の中心地である大峰山が有名で、その奇妙な名前の由来は、煮つめる時間を陀羅尼経を読む回数で計ったからとも、僧侶が陀羅尼経を読む時に口に含んで強い苦味で眠気をさましたからともいう。 もともと修験道と薬の関係は深い。大峰山麓の洞川や吉野山、高野山、伊吹山、石鎚山などの陀羅尼助や陀羅助のほかに、伊勢朝熊山の万金丹、石動山の和中散、伯耆大山の煉熊丸、求菩提山や英彦山の不老円、木香散、五宝丹など。 ところで、御嶽山の百草が修験を通して生れたとすれば、御嶽名物のもう一つの薬、奇応丸は木曽代官の山村家の上級家臣が山村家の免許のもとに製造したのにはじまる。その処方も、百草がキハダを主成分にセンブリやゲンノショウコなどの地元で採れる植物から作ったのに対して、奇応丸は広東人参、沈香、麝香、熊膽、金箔と、高価な薬材から作った。どうも日本の製薬史では、修験道が伝えた流れと、近世に財源確保のために藩や天領が起した官営の流れについて考える必要があるようだ。 |
〈その2・了 / 「日本『異界』発見」1998.12.01 JTB発行初版より〉 |
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